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ブエノスアイレス午前零時

ホライゾンⅥ中感想、もとい大奥について真剣に考えてみた、の結果です。
ネタバレはそんなにないと思います。あと多分論理的欠陥は存在してると思うので「違うんじゃないの」って方はついったーで直接言って下さるかコメ欄でよろです。と言って来た試しがないんだ。空気だし。このブログマジ誰が読んでるか不明な感じだし。

絵はのちのちにね。



うん、えっと大奥の歪みの話。とはいっても大体どうしようもない視点からのものなんで、「じゃあ解決策は?」と言われたら「革命するしかない」と答えなければならないかな、とかそういった類のところからの話。下準備としてウテナ全話見てたら大体わかると思うよ。まずは構造的欠陥話して、次に物語における関係性の不平等さを話して、最後にちょろっと感想を書こうと思う。突っ込みどころ満載だから突っ込みたいなら突っ込もうね。

まず大奥の構造的欠陥から。とはいってもこの「構造」というのは作品内の根底に流れる思想的構造の批判なので直結して作者自身の思想批判になってしまう恐れがある。正直私は川上氏の作品はホライゾンが初めてで終わクロもちょっとしか読んでないから個人的にそこまで言及する気はないし、彼がそれをわざとそうしているというのもあるかもしれないから、それを考慮してほしいと思う。要するに笑っていいよということと、「だったら読むな」ということを止めて欲しいってことです。
それでは最初に「ホモソーシャル」の話をしましょう。

「ホモソーシャルとは、イヴ・セジウィックに提唱された、異性愛男性の友情・同胞愛によって支えられた連帯関係を指す、「ホモフォビア」と「ミソジニー」から 成る概念である。セジウィックによれば、古代ギリシアから近代に至るまで西洋はホモソーシャルな社会であったが、ホモソーシャルはホモセクシャル(同性愛)と断絶したものでなく、連続したものであったという。ホモソーシャルな社会は潜在的に同性愛的であった。彼女は、男性が異性愛関係をもつのは男同士の究極的な絆を結ぶためであり、女性は男同士の絆を維持するための媒介であるという。ホモソーシャルな社会では、女性は男同士が絆を結ぶための手段になって いるのである。これは、レヴィ=ストロースの「女性の交換」論、すなわち、女性は婚姻の相手としてではなく、男同士の絆をゆるぎないものにするために交換される物であるという考えを受けたものである。この女性の交換から、「ホモフォビア」=同性愛嫌悪と「ミソジニー」=女性嫌悪が生まれる。女性を介しない 直接的な関係(=同性愛)を避け、同時に女性を単なる道具に貶める(=女性嫌悪)からだ。」(引用:http://kyotoconservative.blogspot.jp/2011/12/blog-post_23.html

詳しくない人に説明できるほど頭は良くない方なので引用させていただきました。ホモソーシャルは簡単にいうと男の男の為の絆だけの閉鎖的社会ってことだよ。そこに女性は介入できない。出来ることは物質として人格を考慮されず交換されることだけ。「で、いったいなんなんだよ、大奥と関係ないじゃん」ってなった人もいるだろうし、「大奥は女の子が物質として扱われる場所ってこと?」って思った人もいるかもしれない。でもそうじゃないんです。この「大奥」という関係性の中で物質として扱われているのは寧ろ「男」であるトーリの方だから。
「大奥」とはつまり、女性版のホモソーシャル社会と同じと言えます。何故なら浅間ミトホライゾン、あと賢姉は、「トーリ」を交換することによってその絆を深めているからです。「大奥」の走りは賢姉の提案です。そしてそれを決定したのは最終的にホライゾンです。その理由は一様に「自分達の今までの関係性を壊したくないから」です。まぁ枝葉はありますが根幹はこれです。トーリを共有することでそれが破壊されることが避けられるならそうしようと、最低限ホライゾンはそう考えていたように思えます。そしてこれは確かに「婚姻の相手としてではなく、男同士の絆をゆるぎないものにするために交換される」行為そのものであると言えるでしょう。ここにトーリの同意があるとはいえ、否、トーリの同意があるからこそその歪さが垣間見えます。しかし、そこには一つの疑問が生まれます。じゃあ彼女たちは自身の欲望の主体であるの?という疑問です。このホモソーシャルが成り立つには社会を構築する「男性」に「性的主体性の自覚」が備わっていなければなりません。何故ならその社会で女性が交換されるのは、女性が「性的客体」であるからです。客体であるから物質として交換され得る存在になります。だけども浅間ミトは「トーリに声を掛けられた」から「大奥」に入りましたね?あれ?これは浅間ミトが客体であって主体でないことの証拠だからその論は通じないんじゃない???そう思いたいですが、でもそうじゃない。

ここで「お姫様‐王子様制度」が出てきます。ウテナを観た人には理解できるアレですアレ。
この「お姫様‐王子様制度」はパッと見、王子様(男)がお姫様(女)を所有しその人格を考えず好き勝手出来る男の為の悪しき構造の発露だと思われがちですが、しかしそれにはもう一つの側面があります。その側面とは「女性は自身の欲望の全責任を男性に負わせることが出来る」というものです。つまり女性は自身の欲望について、相手がそれを要求したからということを理由に、それに伴う責任について問われることは無い。これは今の浅間ミトと同じです。彼女達はトーリを「王子様」に仕立て上げることで自身の欲望の責任を全てトーリに押し付けています。それも無自覚に。これが女性のホモソーシャル的組織である大奥を根底から支えるメソッドです。言い換えれば全ての原因がトーリにあるように見せかけてしまうトリック。
「お姫様‐王子様制度」そのものについての歪さはウテナ本編を見てもらうとして、この負のスパイラルを更に負の根底へ推し進めてしまう最後のキーは、Ⅵ中で大奥のそもそもの形成理由として出てきた「全てはトーリの弱さに帰結する」というものです。

今まで述べてきた構造は知覚が難しいものばかりです。問題意識やそれなりの知識を持っていなければ、「なんとなく気持ち悪い」で済ませてしまう。ともすればそのような知識を備えていたとしてもその違和に言葉を与えることは難しい。しかし言い得なくても違和感自体は残ります。不満がもやりと浮かんでゆく。そこに登場したのが、トーリの弱さを原因に大奥を形成したというホラ子の言葉でした。すると後に戻れなくなった違和感や不満はそこに原因を求めます。つまり「トーリがもし強かったなら、このようなことは起こらなかった」ということになるんです。しかしトーリの「弱さ」はトーリのキャラクター性の根本にあるのだからどうすることも出来ない。そこで始まるのは「トーリ」というキャラクター自体の存在理由の批判です。例えば「トーリは物語的機能しか備えていないキャラクターである」だの、「トーリは最早主人公でない」だのといったものです。正直一度でもそういうことを思ったことや言ったことがある人は軽蔑に値いしますが、まぁここではそういうの言っても仕方ない。要するに「全部トーリのせい」ってなってしまうんですよ下手すると。しかしそうならなくとも、「大奥」という構造の中で、トーリは「交換物」ですから都合の良い方向にしか動けない。ま、それが良いならいいですが、私は嫌だね。とかそういう話です。

次に物語における関係性の不平等さ、に行きましょう。
これにはあるツイートが関連してきます。えっとそれに基づいて話そうと思うので引用させていただきますね。


ということでした。はい。素晴らしい。原作の大奥形成がどういう道筋をたどっていっていたかが明確に分かる考察です。で、私はそこに水を差す。「ホラの世界で恋愛が至上でなく、関係性の最上がセックスなら大奥いらなくね?」。至極無粋。
恋愛が重視されてなくて身体関係は恋愛の至上じゃないなら、別段大奥に拘る理由はあんまり無い。ミトはミトとしてトーリに関係性上の王様として「責任」を取って貰えば良いんだし、浅間は浅間でそうしてもらえれば良いだけです。個々に独立したスロットに収まる関係性であるなら、それが最終的に身体関係に至るものであったとしても大奥という枠組みで縛ることに意味はない。 ホライゾン世界で恋の価値が低いならば特に。じゃあなんで「大奥」に皆が拘るのかという理由に、トーリが「責任」という言葉を大奥を認めるときに使った理由について、私は別の可能性を提示します。要するに「大奥」って「トーリの身体を担保とした取引」、つまり「人身売買」じゃないか?と。
その前に「責任を取る」が「嫁に来い」とニアイコールになりにくい説明。まずは作中に明確な形で使われていない。見落とし有りそうだけども。メアリ殿辺り言ってそうだけど。思い出すのは「うる星やつら ビューティフルドリーマー」だけど。でもあれは大奥とは逆の意味合いだし。「無理やり揺り起こすのだから夢と同じような良い現実を見せてよ」って意味だ。閑話休題。そもそも個々の関係性を尊重するなら「責任を取る」というネガティブ、というよりも取引関係のような言葉ではなくもっと個別に違う言葉があったんじゃないかと思うのです私は。確かに責任(義務)からくる行為は当然感情からくる行為よりも強いです。しかし義務的行為には感情が介入出来ない。そうなると「責任を取る」という言葉にトーリの個人的な感情を介入させる余地はあまり無さそうに感じるけど、それを「嫁に来てくれ」という感情的行為にすげ替えることは出来るのかな、というのが根本的理由であります。難しい。
次にトーリとホラ子の一心同体についての否定。ホラ子はトーリのカッコつけに気付いているならば、それはつまりトーリがホラ子に「本心を話していない」という決定的な証拠になりうる訳であって、それは大奥に関することでも通じてしまう事になります。「カッコつけ」というものは他者と自己を隔てるものです。そしてそれは相互理解の壁ともなる。そう考えるならば真の意味でホラ子の言葉はトーリの言葉ではないでしょう。結論は同じでもそれに至るまでのプロセスが重要視される大奥の形成については、決定的な場所で互いに大きな齟齬があることを示唆しています。ではその齟齬とはなんだろうか、と考えた時に行きつくのがトーリにとって大奥とは「取引」である、ということです。
トーリはⅢ下巻の喪失を経験した後、Ⅳ下巻で覚悟を決めます。その覚悟とは「みんなに頼ってばかりではなく自分に出来ることをする」ということ以外具体的には示されていませんが、彼が覚悟を決める場面で行っていたイヴァン4世への説得を考慮するならば、覚悟とはつまり「他人の感情の機微を政治的に利用すること」を厭わなくなった、と考えて差し支えない。そしてこれが大奥にも適用されるなら、彼は好意の有無に関わらず、浅間ミトの感情の機微を政治的に利用する、つまり彼女達が自身に好意を持っているならそれに応える代わりに政治的活動の場において協力を要請している可能性があるのです。これは逆に言うならばトーリは「自身の個人的感情」を「モノ」として扱い、彼女達への担保としているのです。

そこには関係性の不平等が発生します。上記の引用ツイートが「女性」側から見た大奥全容ならば明らかです。トーリにとって大奥にはなんら私情は挟まれてないんだから。彼はそうしようと思えば簡単に人が欲する言葉を言えてしまうキャラクターなのは大奥形成の話が持ち上がる前から明確化されていました。そして今回の「大奥」はそれを恣意的にしていたのかもしれない、という疑念が持ち上がるのです。そしてホラ子との齟齬は此処から来る。というかそうなると「覚悟」とはいえトーリは悪い奴だなぁ。だからこそ本人はそれをⅣ下まで忌避してたんだろうけど。
関係性の不平等はこのぐらいで。もうちょっとありますけど語るには落ちる。今後の展開もあるし、現段階での問題点と予想のひとつと考えていてほしい。ぐらいの心意気で。

最後にⅥ中の感想。ショーロク可愛い。以上。と行きたいけど、個人的にはこの巻はトーリ最萌え巻なんじゃないかと思わざるを得ない。可愛いなぁトーリは。大奥抜いたらトーリの可愛さがきらりと光る。あとシロくんは多分次で圧倒的出番をもらえるんじゃないかな。氏直さんについては色々あるけど、それは担当の人に投げる。
それではこの記事を最後に締めにしたいと思います。

ブエノスアイレス午前零時 - halt. http://d.hatena.ne.jp/harutabe/20100711/1278831457



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